六甲山の開祖、グルーム
1868(慶応3)年、神戸が開港した年、1人のイギリス青年が神戸に上陸した。その名はアーサー・ヘスケス・グルーム(Arthur Hesketh Groom)21歳、トーマス・グラバーと共同経営しているグラバー商会の兄フランクを頼って、第2の故郷となる日本にやってきたのである。
グルームは、神戸元町の山側にあった善照寺に居を構えて、その年には寺の住職の取り持ちで士族の娘・宮崎直と結婚、日本人以上に日本を愛するようになった。彼は貿易商としても成功し、また、趣味を多くて、絵を描き、芝居を演じるほか、水泳、ボート、クリケット、登山などを好むスポーツマンであった。
彼をとりこにしたのは、手付かずの荒々しい六甲山の自然で、しばしば山に登り、またその眺望の素晴らしさに、1895(明治28)年には借り受けた土地に山荘を建てた。これが六甲山に建った最初の山荘で、神戸居留地にある彼の商館の番号をそのままとって「101」と呼ばれていた。次に友人たちを勧誘し、避暑地としての六甲山の魅力を広めていった。こうしてグルームは「六甲の開祖」と称されるようになり、現在「六甲・山開き」と共に「グルーム祭」が毎年、行われている。
日本で最初のゴルフコース誕生
神戸ゴルフ倶楽部は、山荘「101」での週末の団欒の中から生まれた。その夜の客はG.Millward、J.Adamson、T.C.Thornicraftだった。ウイスキー片手にイギリスの思い出話に花を咲かせ、故国で盛んなゴルフの話に及んだところ、大のゴルフ好きであるAdamsonが「今や香港でもゴルフが出来るそうだ」と言うのを聞いて、それまで黙って話を聞いていたグルームが「ここにコースを造ろうじゃないか」と言い出したと伝えられている。1896(明治29)年の夏、グルームはすでに50歳を過ぎていたが、それまでゴルフの経験はなかったという。
早速、土地を借り、グルームは何人かの仲間の協力を得て、岩を掘り起し、雑草や笹の根を手鎌で刈り取り、ツツジの根を引き抜いたりという全くの人手によるホール造りが1898(明治31)年から始まり、3年の苦労の末、1901(明治34)年の秋に最初の4ホールが完成した。
当初は、仲間うちでプレーするだけであったが、やがて噂が広まって来場者も増え、5ホールの増設にも着手し、コース管理・運営もグルーム1人の手に負えなくなってきた。そこで9ホール完成の見込みがついた1903(明治36)年2月27日、神戸商工会議所で「神戸ゴルフ倶楽部」の創立総会が開かれた。
コース誕生のきっかけとなった時のメンバーのThornicraftは初代のPresidentに、MillwardはCaptainに、GroomはHon.Sec.&Tres.に選任された。なお、Adamsonはコース設計を担当し、1904(明治37)年には、さらに9ホール拡張され、全長3576ヤード、ボギー78の18ホールのコースが完成した。18ホールのティグラウンドやグリーンは、すべて砂を固めて造られて、六甲のサンドグリーンは長い間名物的な存在であった。
開場式とオリジナル・メンバー
1903(明治36)年5月24日、兵庫県服部知事、神戸市坪野市長や英Hall領事などの列席のもと、神戸ゴルフ倶楽部の開場式が催された。質素で和やかな雰囲気の昼食会の後、始球式に移り、服部知事は1番ティに進み出て始球式を行った。これがまさに日本最古のゴルフ倶楽部で打たれた最初のボールである。
この日、ゴルフ初体験の知事の記念すべき第一打は、走り寄って拾えるほどのチョロであったと語り草として伝えられている。グルームはそのボールを自ら拾い、永く倶楽部に保存し、記念となすと述べ式が終わった。このボールは、今もグルームの言葉通り、倶楽部のクラブハウスにマントルピースのオーナメントとして大切に保管されている。
始球式に続いて倶楽部競技が行われ、これが神戸ゴルフ倶楽部の最初の競技であると同時に、日本での最初のゴルフ競技である。Challenge Cupと呼ばれ、第1回の倶楽部選手権で、コース設計に最初から係わっていたAdamsonがグロス95で優勝し、グルーム寄贈のChallenge Cupを手にした。このCupは以後も倶楽部選手権の優勝者の名前を刻んで、今日まで受け継がれている。
開場の年、倶楽部会員が自署した「ORIGINAL ROLL OF MEMBERS FUNDED FEBRUARY 1903」は、当倶楽部から寄贈した原本がJ.G.Aゴルフミュージアム(廣野G.C)に保存されており、その複製が当倶楽部のメンバーズ・ルームに掛けられているが、それには135名の署名がある。開場式の印刷物には「会員現在120名」とあるが、年次報告書にも135名が登録されている。
会員は、数名のドイツ人、フランス人、アメリカ人の他は、ほとんどがイギリス人で日本人もわずかにいたが、名誉会員的な存在であった。当初の会員の殆どがK.R&A.C(Kobe Regatta & Athletic Club) 及びKobe Club(神戸外国倶楽部) の会員であり、初代PresidentのThornicraftもKobe ClubのPresidentを務めたことがある。
各ホールの愛称とその由来
18ホール完成直後の1904(明治37)年12月23日付のロンドンで発行された「Golf Illustrated」に、 「Golf in The East. Kobe Golf Club」の見出しで神戸ゴルフ倶楽部の紹介記事と共に各ホールの愛称とヤーデージが記載され、唯一当時を物語る貴重な資料となっている。
No.
愛称
由来
1
Dumpie
このホールでホールインワンをした人にグルーム愛飲のウイスキーDumpie1箱を倶楽部から贈ることから
2
Kobe
ティグラウンドに立つと神戸の港と街が見渡せることから
3
Bishop’s
グリーンの向こうに松陰女学校 Foss 校長の山荘があったので
4
Styx
『ステュクス川』(ギリシャ神話)三途の川、ティグラウンドの下に小川が流れていた
5
Yokohama
フレンドリーライバルの横浜の名をとって
6
Rokkosan
神戸ゴルフ倶楽部全コースの中心に位置する
7
Pons Asinorum
池があって、スコアを崩す人が多く、難解な池という意味。数学者のユークリッドの公理から
8
Excelsior
『より高く』という意味で、きびしい坂を打ち上げる
9
Kuban
九番
10
The Boundary
『境界』とよばれ、気持ちを入れ替えて心機一転インコースへ
11
Doctor’s Nob
『医者の頭』初代プレジデントDr.Thornicraftの大あたまをもじって
12
Long Vallery
『長い谷』ティグラウンドから長い谷を越えて打った
13
Purgatory
『苦難の関所』地獄極楽の分かれ路
14
Paradise
13番を無事に過ぎればここは『パラダイス』、すべて上りで楽園への道は大変
15
Groom’s Putt
グルームが『パター1本で勝負しよう』と持ちかけた最長のホール
16
Quarry
『石切り場』コース右の小山に石切り場があった
17
Shorty
最短ホール
18
Deoch an Doruis
ゲール語で、これで終わるので『一杯やって帰ろう』の意味
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各種競技と女性ゴルファー
3シーズン目に入った倶楽部では、男女各種の競技が始まり「日本初」の記録として残されている。キャプテンズ・カップを初め、月一度のアンダーハンディ競技を「ノミネーション」と名付け、その勝者でシーズン終わりに決勝戦を行っている。今で言うマンスリー・カップ、グランド・マンスリー・カップである。ロング・ドライビング競技が行われ、R.H.Clarkが169ヤードの記録で優勝。また、1906(明治39)年に初めてのホールインワンが3番ホールでE.F.Dorfingerによって記録された。
創立当初から、婦人会員は認めていなかった。翌年に「婦人も会員に」との声も出たが、賛成を得なかったが、長いスカートの裾をひるがえしてクラブを振る女性の姿が見かけられたのは、土曜の午後と日曜の午後4時までを除けば、会員の夫人と家族はゴルフをすることが認められていたのである。
1905(明治38)年には、日本初の婦人競技(Ladies Competition)があり、婦人のフォーサム競技も行われた。婦人競技は、18ホールズ・メダル競技なども行われている。
1906(明治39)年、当倶楽部最初のパッティング競技が行われた。その後、毎年行われたこの競技は、婦人のゴルフ上達した理由からか、アプローチ・アンド・パッティング競技と名を変え、良き時代の終わる1937(昭和12)年まで、夏の倶楽部行事の一つであった。戦後、1981(昭和56)年に再開され、女性会員及び会員家族も参加し、再び夏の倶楽部行事となっている。
キャディのこと
当時、「玉ひろい」と呼ばれていたキャディは、六甲山麓の村の少年たちで、土曜日の午後と日曜日にはゴルフ場に通ってきた。キャディたちは暇があると棒切れなどでゴルフのまね事をし、時には客のクラブを拝借して練習する者もいて、ゴルフの腕前も上達した者も出てきた。
倶楽部では、1905(明治38)年10月に、最初のキャディ競技、10ホールズ・メダル・プレーを行い、グロス50で通称Bullet Head・横田留吉が優勝した。 1906(明治39)年6月にロンドンで発行された「The Badminton Magazine of Sports & Pastimes」に神戸ゴルフ倶楽部の紹介と共に「Bullet Head,Winner of Caddies’Championship,1905」として見事なフォームの絣の着物を着た子供の写真が載っている。
これ以降、倶楽部ではシーズンの終わりには、菓子や弁当を配り、キャディ競技を行っている。現在、キャディの多くは大学又は大学院の学生アルバイトであるが、キャディ・トリートの伝統を守り、倶楽部行事として親睦キャディ競技を行い、彼らの日頃の労をねぎらっている。
往年の名プロゴルファー宮本留吉も13歳からここでキャディをし、中上数一、越道政吉らプロゴルファーも神戸ゴルフ倶楽部のキャディ経験者の中から誕生している。
日本人会員と倶楽部の発展
創立当初から数人の日本人会員が名を連ねていたが、名誉会員的な存在であった。 神戸ゴルフ倶楽部で最初にプレーした日本人は、1905(明治38)年に入会した小倉庄太郎とその妹の末子と言われている。
1912(明治45)年、松平慶民(後の宮内大臣)が入会し、英国留学中にイギリスでのマナーとゴルフを身に付けた紳士で、極めて評判もよく、ハンディキャップも12であった。然し1917(大正6)年頃まで会員の中に、日本人の入会を厳選しようとの動きが出て、日本人の入会は極端に制限され、この間に2人の日本人の新入会員の名があるが、プレーをしたとかハンディキャップを取ったとかの記録がない。この理由は明らかではないが、この5年間に入会できたのは、大谷光明の他1名である。
1918(大正7)年以降、厳しい審査路経て入会した会員には、南郷三郎、星野行則、松本虎吉、広岡久右衛門らがおり、いずれも後に日本ゴルフ界に貢献した人々である。
1914(大正3)年の第一次世界大戦の前後を境に、日本人の経済力も強くなってくると、一方、外国人の活躍する場が次第に狭められ、帰国する人が増えてきた。1921(大正10)年頃から経済的に余裕のある日本人が、帰国する外国人に代わって、新たな会員として加わり、徐々に日本人会員の比率が増え、1926(大正15)年には外国人対日本人の会員数が83対98と逆転した。
倶楽部には日本人のほかイギリス、ドイツ、アメリカなどさまざまな国の人々が、何のこだわりもなく集まり、コースでの熱戦は19番ホールに持ち越されて、ベランダや当時、女人禁制のバーと男子休憩室では、週末には夜遅くまで続くのが常であった。
何時から始まったのか定かではないが、11月末頃に、そのシーズンの19番ホールの総仕上げというべき祝賀晩餐会を神戸外国倶楽部 で行い、その主役は倶楽部選手権の優勝者だが、その年の倶楽部競技の優勝者も名を連ねて会員を招待している。
昭和に入ると、ドライブウェイやロープウェイ、ケーブルの開通が相次ぎ、六甲山の開発は急ピッチで進んでいった。
1933(昭和8)年頃には、山上には日本人の別荘も増え、共同山荘として大阪の青年実業家の「サースディ倶楽部」、壮年実業家の「甲子倶楽部」、銀行家を会員とする「晩霞倶楽部」が建てられ、会員も日本人会員が3分の2以上を占めるようになるが、倶楽部の運営は外国人を中心に行われていた。
現在の当倶楽部の宿泊設備「チェンバー」は、戦後、「サーズディ倶楽部」から買い取ったものである。
一方、創立以来のサンドグリーンについて、1911(明治44)年グラスグリーンを試みたが、六甲山上で芝は育たないと断念されたが、1927(昭和2)年に再び計画が持ち上がり、100坪の養成場で芝のテストをしたが失敗に終わった。
再度、1929(昭和4)年の春、高麗芝を10番グリーンに植えると好結果を得たので5年をかけて、1933(昭和8)年までにグラスグリーン化を実現した。
開場当初から28年間使われていた質素なクラブハウスも、1932(昭和7)年に著名な設計家W.M,Voriesの手により建て替えられた。 建て替えられたクラブハウスは、現在、近代産業遺産として登録されている。
暗黒の時代から戦後の再開
1937(昭和12)年に日中事変が勃発するや、各種統制令をはじめ戦時体制が急速に人々を縛りはじめた。戦局の悪化とともに、各地のゴルフ場は軍用地や農耕地として徴用されたが、神戸ゴルフ倶楽部は山上という立地のためか、徴用を免れ、1942(昭和17)年まで倶楽部選手権が行われ、1944(昭和19)年までプレーも可能だったが、ゴルフをする人もなく雑草だらけとなっていた。1945(昭和20)年春、県の農業試験場によりジャガイモなどが植えられ、海軍療品廠によって麻酔用の朝鮮アサガオが植えられたが、殆ど収穫をみることなく終戦を迎えたのである。
戦後、ほどなく米軍によって米軍のゴルフ場として接収され、復旧をいそがれて1946(昭和21年6月にはまがりなりにも9ホールの使用が可能となったが、グリーンは高麗芝の寄せ集めであった。国内では芝の手当てが難しく、米軍によってベントグラスの種が空輸され、高麗グリーンの上にオーバーシードを行い、1948(昭和23)には18ホールが甦った。
1949(昭和24)年には倶楽部の努力で、会員がプレーする許可を米軍から得、占領下とはいえ、国際色豊かなゴルフ場として復活したのである。
そして1952(昭和27)年2月には返還を受け、同年4月に戦後初の総会が開かれ、倶楽部は再開の第一歩を踏み出した。
姉妹倶楽部の提携
1965(昭和40)年、当倶楽部の理事会で、姉妹倶楽部が議題となり提携先として2、3の倶楽部名が上がるも交渉するまでには至らず、その後も、話は出るが具体化せずに終わっていた。
2002(平成14)年、翌年の倶楽部創立100周年を迎えるのを機会に「姉妹倶楽部をつくっては」との話が出て具体的に進めることになり、九州ではチャンピオン・コースとして名高い古賀ゴルフ・クラブ に、関東では1931(昭和6)年に開場、今なお英国風の趣のある(社)相模カンツリー倶楽部 に姉妹倶楽部の提携を申し入れた。両倶楽部から提携を了承頂いたので、2003(平成15)年、神戸ゴルフ倶楽部は、古賀ゴルフ・クラブ及び相模カンツリー倶楽部と覚書を締結し姉妹倶楽部となり、両倶楽部との交流が始まった。
神戸ゴルフ倶楽部設立の翌年、1904(明治37)年、横屋(現在の神戸市魚崎)に当倶楽部会員のイギリス人W.J.Robinsonが、冬には六甲ではゴルフが出来ないのでと6ホールの「横屋ゴルフアソシエーション」を設立し、冬にはグルームをはじめ当倶楽部の会員がよくプレーをしていたが、借りていた土地が売却されることになり、9年後の1913(大正3)年、鳴尾浜に「鳴尾ゴルフアソシエーション」を興し、6年後に解散したが、これが礎となり1920(大正9)年、鳴尾ゴルフ倶楽部 が設立された。この様に生い立ち、経緯からして、当時、当倶楽部と鳴尾ゴルフ倶楽部とは、兄弟倶楽部として大変親密な倶楽部で、会員同士の交流も多く、1922(大正11)年から毎年、「インタークラブ・マッチ」を秋は鳴尾、夏は神戸で行い、戦前は両倶楽部の主要な行事の一つであった。
戦後、長らくの間、倶楽部間での交流が途絶えていたが、遅蒔きながらどちらかが言うでもなく、姉妹倶楽部を締結しようとの話が出て、2006(平成18)年の末に覚書を交換し、姉妹倶楽部となった。早速、翌年から「インタークラブ」にちなんで、春は鳴尾、秋は神戸で懇親ゴルフ会を開催する事とし、同時に団体戦も行い、また会員同士の交流も盛んで、両倶楽部は親睦を深めている。
100周年記念行事
1903(明治36)年5月24日の神戸ゴルフ倶楽部の開場日にちなみ、100周年記念競技会での招待競技会は、2003(平成15)年5月20日、21日に、会員の競技会は24日、25日に行われた。
20日の招待競技の朝、六甲の山は生憎の霧に包まれていたが、J.G.Aの安西会長、平田副会長を始め各ゴルフ連盟の会長、各ゴルフ倶楽部の理事長、代表者、また英国大使館からはGomersall大使、Hook総領事、Smith副領事、海外からはR&AのWhitmoreキャプテン夫妻、英国ゴルフ協会のBryce会長夫妻が来場された。
競技会に先立って、創立時の服部知事の始球式にちなんで、井戸兵庫県知事が来場された。始球式は、1番ホールで競技参加者やテレビ局、新聞社など報道関係者の見守る中で、井戸知事によりヒッコリークラブで、当時のボールを複製したガッタパーチャ・ボールを使って行われ、ナイスショットの声と共にボールは霧の中に消えて行った。
始球式の後に霧も晴れて、競技は1番ホールでは全員ガッタパーチャ・ボールを使い、ホール・アウトして100年前のゴルフを体験し、感触を楽しんだ。
レセプションは、クラブハウスで行われ、当倶楽部理事長の挨拶に続いて、安西J.G.A会長、Gomersall英国大使、Whitmore R&Aキャプテンから祝辞を頂き、贈呈式では、J.G.Aからは銀製のプレートが贈られ、R&Aからは中にR&Aのクラブハウスのレリーフのある銀製のプレートを、英国ゴルフ協会からは創立100年を迎える倶楽部に贈る絵皿を頂いたが、この絵皿を英連邦以外の倶楽部に贈るのは神戸ゴルフ倶楽部が始めてであるとのことであった。
Bryce英国ゴルフ協会会長の乾杯でパーティーに移り、和やかな雰囲気の中で100周年記念を祝った。
2日目の21日は、関係ゴルフ倶楽部の支配人、新聞、テレビ、ゴルフ雑誌のマスコミ関係者及び六甲山の関係者が来場され、快晴のもと1番ホールでは前日と同じくガッタパーチャ・ボールを使用して記念競技が行われた。
前日に続き、レセプション・パーティーともクラブハウスで行い、和やか歓談が続き、表彰式のあと解散した。
会員の記念競技大会は24日、25日、2日間に分かれて行われ、競技には251名の参加があり、1番、7番、11番、16番の4ヶ所からのショット・ガン方式で、1番ホールでは、ガッタパーチャ・ボールを打ち、100年前のプレーを体験した。
記念パーティーは25日の夕刻からポートピア・ホテルで開かれ、参加者は会員357名に、創始者グルームの子孫とご家族を招待し、「六甲倶楽部ファミリー」として創立100周年を盛大に祝った。
創立100周年を経て
開祖グルームをはじめとする先人たちが、ゴルフを楽しみたいとの思いで六甲山上に蒔いた一粒の種は、幾多の試練を乗り越えて立派に育ち、日本ゴルフ発祥の地である六甲山上の同じ場所で、神戸ゴルフ倶楽部は創立100周年を迎えることが出来ました。
明治、大正、昭和、平成と年号を経たこの100年は、日本の歴史の中でも最も激動した時代であったが、時代の流れや苦難に大きく左右されることなく、この間に培われた当倶楽部の良き伝統である「家族的な雰囲気のある倶楽部」は、倶楽部に集まった家族同士、仲間同士が親交の輪を広げ、ゴルフを中心とした気取らない社交の場の存在があるからであります。
今や80年にもなるVories設計の質素だが、風格のある木造クラブハウスは、 ゴルフ博物館と言ってもよく、会員の心の故郷であります。
神戸ゴルフ倶楽部は、次の100年に向かって一歩を踏み出しているが、単に日本最古のゴルフ倶楽部と言うばかりでなく、諸先輩が守り続けた倶楽部の原点、それは倶楽部創立以来の理念である「心からゴルフを愛する人が集まって創った倶楽部」「倶楽部が好きなんだと言う人が集まった倶楽部」であることを胸に深く刻み、次の世代に伝えていきたい。